大嶋 彰
Akira Oshima

20229月 個展コメントより( 新宿 京王プラザホテルロビーギャラリー)

ロビーギャラリーでの二年毎の個展も今回で6回目となった。前回は新型コロナにより中止となったため4年間の変化が作品に現れている。この驚くべき数年間が私の制作にもたらしたものは、より深く見えないものに降りていくことであり、それによって全く異質な造形要素をぶつけてみるという無謀とも思える試みも可能になってきたように思う。

この世界の混迷さと解決不能な問題を見せられるたびに、このような「衝突」と「両義性」の揺れ動きに身を任せてみたくなった。それによって世界の隠された局面が味わえるのではないかとも感じている。それには、せめて自分の作品を私物化することだけはしたくないと思う。遠く隔たった差異を持ち込み、そこで起こる絵画的な出来事によって何事かの更新を続けていきたいものである。

20213月 [谷川渥企画]「表層の冒険-抽象のバロキスム」展 記録集コメントより

 他人の齢にまつわる繰り言を聞かされることほど埒もない話もないであろうが、さすがに70ともなると、この世の中の如何ともしがたい対立や矛盾にあきれ果てると同時に、一方でこの対立や矛盾がこの世界を駆動し続けているエンジンでもあるのではないかと、その両義性が生み出す喜悲劇にむしろ肯定的になりそうな自分もいる。無論そのような対立や矛盾の片方に「理想」や「正しさ」という錦の御旗を掲げた時、凄惨な結末が訪れるであろうことは歴史を顧みるまでもなく今でも日常茶飯事のように起こっている。だからと言って、それが現実だと高をくくるのもやはり悔しいものである。凄惨な結末は、知らぬ間に突然やってくることが分かっているからだ。しかし、分かってはいても人間はダブル・バインドや無意識の偏見から逃れることはできない。言葉によって人間になり、言葉によって対立や矛盾を引き入れることは、残念ながら私たちの宿命であり、同時に社会を成り立たせている両義性なのである。

 近作のタイトルは《隠されていたピュシス》とした。ピュシスとは<自然>のことであるが、この自然は言葉を持った人間にはもはや戻ることのできない自然である。今、戻ることのできない自然からの襲撃が全世界を機能不全に陥れているのは、考えてみれば不可避の事態である。生態系と人間は対立する存在なのである。ただ私たち人間には、ピュシスに対応する言葉がある。「カオス」である。せめてピュシスのアナロジーとして「カオス」に不断に戻れるとしたら、ダブル・バインドや無意識の偏見から逃れることはできないとしても、せめて「気づき続ける」ことぐらいはできるかもしれない。例えばキュビスムから派生したコラージュは、完成した作品を破壊し、カオスから秩序に戻る反発を利用した再構造化の試みであった。現代アートがどんなにメディアを拡張しようと、芸術的行為や芸術的知性の在り方とは、人間の逃れられない両義性に対して、カオスから再浮上するエネルギーを往還的に駆動させ続けることを指しているのだと思う。終わることのない不可能性に賭ける試みこそ、私たちの世界の持続可能性を保証するのではないだろうか。

201810月 「第2回八色の森の美術展―ことの葉のかなたへ―」(池田記念美術館)記録集コメントより

世界中に自己中心的な本音が現れてきた。膨大な情報(欲望)とその不満がまき散らすストレスに耐えかねて、まるで噴きこぼれた鍋のようである。前世紀を通じて掘り起こされてきた芸術や思想の地殻変動は、今では何事もなかったかのように塗りつぶされ、「意味」という無数の図にすがりつくことで自己の充足をはかろうとでも言うのだろうか。自己は一度でも意味だけで充足されたことはないにもかかわらず‥‥‥。

この前世紀の地殻変動が私たちに知らせてくれたことは、意味も自己も元はと言えば恣意的であり、意味ならざるものや自己ならざるものとの関係によって生成され続けるということではなかっただろうか。しかし一方で、この恣意性が徹底的な二律背反とダブル・バインドをもたらすことも同様に知らされている。意味や自己は変えることができなくてはならず、かつ、変えてはならないのである。そしてこの矛盾は、人々の欲望が最も露出しやすい「教育」に表象される。私は、図らずも教育現場に身を置きながらこの両極を、つまり「芸術」と「教育」のことを考え実践してきた。

私の絵画実践は、このような両極に呼応するかのような、形と形ならざるものの葛藤と往還であり、その瞬間におとずれる両義性にある。つまりその両義性が、両義性のまま宙づりにされたとき、絵画という表面に忽然と何らかの構造をもった奥行きが現れるのである。このような奥行きは、私自身の<生>の現場であると同時に、ひとつの社会実践でもあるのだと感じている。