大嶋 彰
Akira Oshima

世界中に自己中心的な本音が現れてきた。膨大な情報(欲望)がまき散らすストレスに耐えかねて、まるで噴きこぼれた鍋のようである。前世紀を通じて掘り起こされてきた芸術や思想の地殻変動は、今では何事もなかったかのように塗りつぶされ、「意味」という無数の図にすがりつくことで自己の充足をはかろうとでも言うのだろうか。自己は一度でも意味だけで充足されたことはないにもかかわらず…。この地殻変動が私たちに知らせてくれたことは、意味も自己も元はと言えば恣意的であり、意味ならざるものや自己ならざるものとの関係によって生成され続けるということではなかっただろうか。しかし一方で、この恣意性が徹底的な二律背反とダブル・バインドをもたらすことも同様に知らされている。意味や自己は変えることができなくてはならず、かつ、変えてはならないのである。そしてこの矛盾は、人々の欲望が最も露出しやすい「教育」に表象される。

私は、図らずも教育現場に身を置きながらこの両極を、つまり「芸術」と「教育」のことを考え実践してきた。私の絵画実践は形と形ならざるものの葛藤と往還であり、その瞬間におとずれる両義性なのだと思っている。